日垣隆氏は好きなライターの一人です。
日垣氏の著作である
「ラクをしないと成果がでない」
の中でこんな記述があります。

(引用開始)
「できるだけ葬式には行かない努力を」
究極的には、葬式は遺族のためにあります。
葬式がないとなかなか喪に服せないので、
第一義的に遺族のため‐第二義的に故人を悼む参列者のための儀式です。
いずれにしろ、亡くなった本人のためでないのは明らかです
(中略)
あくまで個人的にですが、計報を聞くと喪服を用意する習慣は、
改めてもいいのではないかと私は思っています。
全員に「葬式に行くな」と薦めるつもりはありませんが、
繊細な人はできるだけ列席しない努力をしてみるのも一つの考え方ではないでしょうか。
喪服をまとってお焼香しに行って、元気になる人は見たことがありません。
私自身の経験でもありますが、同世代や同業者、親しい仲間が亡くなるのは、
年齢をかさねるごとにしんどくなります。
付き合いがあったのは本人だけで、遺族は誰も知らないなら、
お悔やみの言葉もありきたりのものしか出ないのが普通。
それなら、「自分なりにちゃんと喪に服し、亡くなった人のぶんも頑張るので、葬式は
パスさせてもらおう」でも許されると思うのです。
(中略)
もちろん、親しい人の配偶者、子ども、親などが亡くなったなら、
なにがあっても葬式に出た方がいいでしょう。
繰り返しになりますが、葬式は遺族のためのもの。
その遺族があなたにとって大切な人なら、励ましにいくのが当然です。

追悼の方法は、人それぞれでいい。
(引用終わり)

しかし一方で
日垣氏は別の著作
「戦場取材では食えなかったけれど」
の中で、
自分も行くはずだった戦場取材で亡くなった
友人のルポライターの葬儀に参列した際の体験をこのようにつづっています。

(引用開始)
しばらくして、築地本願寺で葬儀があった。列席者は1500人にも達したという。
 第一報のあとも大きな報道がなされ、ワイドショーで何度も取り上げられた。
テレビや新聞の記者たちにとっても「他人事ではない」ということなのだろう。
それにしても、大きな葬儀だった。”普通″に死んだのなら、
150人も来れば上々だろう。日本の路上における交通事故ならば、
このように盛大な葬儀はありえなかったはずだ。同じ死なのに。

俺が死ぬときは、葬儀などやってもらいたくないと、ずっと前から思ってきた。
とはいえ友人の葬儀に、これだけ大勢の人たちが来てくれたのは悲しむべきことではあるまい。たとえ少なからぬ参列者が彼と面識もない人々だったとしても。
焼香の順番が回ってくるまで、仕方がない、あれは仕方がない事故だったのだ、
と俺は何度も自分に言い聞かせていた。
危険な場所に行って、最大限の努力をしても、死ぬことはある。
それは覚悟のうえだったはずだ。
やむをえない。仕方がないのだ。〃普通″に生きていても死ぬことはある。
数万人の戦苑者が出ている内紛地帯で、取材者が命を落としても、
それはやむをえない。
誰かがやらねばならない取材だった。
彼にも子どもが2人いる。その子たちにも伝えうる報道を、他にやれる者がいないのだから、俺たちが行ってやろうじやないか。それのどこが悪いのだ。
一時間ほども並んだだろうか。ようやく、焼香の順番が回ってきた。階段を登り終えると、右手に沼沢君の遺族がいた。奥様と、2人のお子さん。
魂が抜けたようだった。
激しくめまいと動悸がした。涙がどうしようもなく溢れてくる。前なんかもう見えない。
なぜだか、よくわからなかった。少なくとも、そこにいた遺族は、俺の家族でもあったはずだ。
(中略)
しかし築地本願寺で沼沢君の遺族に接した瞬間、「こんなに家族を苦しめてはいけない」と思わずにはおれなかった。一人で生きているのではない。もちろん、人は必ず死ぬ。けれども、死に急いではいけない。度が過ぎた無謀さは、遣された家族に失礼である。
初めてそう気づかされた。これだけのことを理解するのに、これほど膨大な時間が必要だということは、もしかしたら俺はバカのままなのかもしれない。
でも、とにかく身に耐みて悟った。
(引用終わり)

断っておくと、日垣氏は中学の頃、
弟を同級生に殺害され(少年法により加害者は罰せられず同じ学校に通い続けた)、数年後兄が発狂するという経験をされています。
だから「死」に関しては他の人よりもずっと考える機会が多かったはずです。
というよりも「考える」時間のほとんどが「死」に関することではなかったか、
と私は思うのです(参照ページ:死についてちょっと考える

そんな経験をして、なおかつお葬式に参列しなくてもいいのではないか、
と考える人でさえ、
お葬式に参列することは「人生観すら変える何らかの気づき」が得られる

ということなのではないでしょうか。

参列者個々の人生観・感受性にもよるので
みんながみんなというわけではないでしょうが
義理で参列するお葬式においてすら「気づき」はあるはずです。
それがたとえわずかの気づきでも
故人の死に報いることにもなるのではないでしょうか。

もし遺族が参列を断っていないなら
そしてどうでもいい映画を見に行くくらいの時間があるのなら

「できるだけ葬式には行く努力を!」



<2010年09月13日>記載