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なぜ我々は遺骨を大事にするのか




一心寺で6月、新たな骨仏が10年ぶりに披露されるという報道がありました。
22万人分、遺骨で造る仏様 なぜ納骨?遺族に聞いた:朝日新聞デジタル
大阪の天王寺にあるこのお寺は永代供養墓機能に加え、お骨で作ったお骨仏があるのが特徴。
お骨仏とは、納骨希望者のお骨を粉末にして、

布海苔と混ぜ合わせて作った仏像のこと。
10年に一体のペースで作られています。

なぜ今回この話を取り上げたかというと
今回作られた骨仏に私の伯父夫妻の遺骨が混じっている(はずだ)からです。
(参考記事:伯父と伯母の墓
これに関して、例えば欧米のキリスト教文化圏の人に
実際混じっているのかどうか確かめられるのか、混じっているのがそれほど大事なことなのか
と問い詰められたらちゃんとした返答はできそうにありません。
でも大事なのです。
この気持ち、「日本人」なら分かっていただけるでしょう。

骨

さて、ここで紹介するのはこの本。

「空気」の研究

いわゆる日本人の特徴である「空気を読む」の「空気」について論じた古典的名著です。
その中で
イスラエルの墓地の遺跡から出土した人骨を投棄するエピソードが紹介されています。

日本人とユダヤ人が共同で、毎日のように人骨を運ぶことになった。それが約一週間ほどつづくと、ユダヤ人の方は何でもないが、従事していた日本人二名の方は少しおかしくなった。
骨は元来は物質である。この物質が放射能のような形で人間に対して何らかの影響を与えるなら、それが日本人にだけ影響を与えるとは考えられない。従ってこの影響は非物質的なもので、人骨・髑髏という物質が日本人には何らかの心理的影響を与え、その影響は身体的に病状として表われるほど強かったが、一方ユダヤ人には、何らの心理的影響も与えなかった、と見るべきである。おそらくこれが「空気の基本型」である

人の霊はその遺体・遺骨の周辺にとどまり、この霊が人間と交流しうるという記紀万葉以来の伝統的な世界観に基づいている

そして空気を読むようになる背景について

対象の相対性を排してこれを絶対化すると、人間は逆にその対象に支配されてしまうので、その対象を解決する自由を失ってしまう

一言でいえばこれが一神教の世界である。「絶対」といえる対象は一神だけだから、他のすべては徹底的に相対化され、すべては、対立概念で把握しなければ罪なのである。この世界では、相対化されない対象の存在は、原則として許されない。

というように多神教は絶対的存在が無いが故に、物事が相対化できず、その結果空気で判断することになると喝破しています。

この本を読むと結局、
日本人が多神教なのも、(参考記事:日本人が「無宗教」でなにが悪い
遺骨を大事にするのも、
空気を読んで論理的な議論をしないのも、
基準値以下の放射能を怖がるのも、
築地から豊洲に移転できないのも
葬儀屋を穢れていると嫌うのも
全部根っこでは繋がっているということに気づかされます。

これを変えるのは難しいでしょう。
つまり島田裕巳氏が提唱する遺骨をゴミのように捨ててしまう世の中にはならないということです。
(参考記事:「葬送の自由をすすめる会」のゴタゴタについて
でも、もしそんな時代が来たときは、
日本人は論理的な議論をし、
葬儀屋は好感を持たれるということですから、
それはそれで悪くないかもしれませんね。











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