あの島田裕巳氏のインタビューが葬儀業界紙フュ−ネラルビジネス6月号に載っていたのでご紹介します。
フューネラルビジネス2017年6月
<http://www.sogo-unicom.co.jp/funeral/image/201706.jpg>

幸福の科学の雑誌に登場したときも紹介しましたが、
島田氏の取材申込みから逃げない姿勢は評価します。
ただ今回のフューネラルビジネスのインタビューは、
島田氏と私の考え方が違うということ以前に、
島田氏の論理と事実認識がおかしいので指摘しておきます。
(フューネラルビジネスの編集の仕方に原因があるのかもしれませんが、
本人も原稿チェックはしているはずという前提です。)

まず総論に対して。

島田氏の発言の趣旨は

「東京の葬儀はダメ。
なぜなら東京には信頼できる葬祭関連業者がいないから。
なぜそう言えるかというと、
葬儀を「合理化」しており、従来の葬送文化をないがしろにしているから」

というもの。

自分が生まれたときに存在したものはずっと昔から存在していたと錯覚しがちですが
日本の葬儀が変化し続けていることくらい宗教学者のはしくれなら知っているはずです。
葬儀の変化はあらゆる時代で起こっています。
氏が正しいとする「従来の」葬送文化というのはどの時代のどんな葬儀を指して言っているのでしょうのか?
単に近年の葬儀に文句をつけたい、もしくは商売として葬儀に文句をつけるポジションを取り続けなくてはいけないという結論ありきの発言なのではありませんか?

そして葬儀の「合理化」をなぜ悪いときめつけるのでしょうか?
ムラ社会の習慣だった寝ずの番を核家族にやらせるべきでしょうか。
お盆の送り火を都市生活者にやらせるべきでしょうか。
このような慣習の変化は単なる合理化ではなく、
ニーズに対する適正化であると思います。

教典はそのままなのに
それぞれの時代において儀式の内容が変わってきたのは
世間のニーズや社会背景や価値観の変化があったからです。
戒名は本来僧侶のみに与えられていたのが、庶民が欲しがったので与えられた。
生前にもらうと戒律を守らなくてはいけなくなるので死後もらうことが定着した。
野辺送りはモータリゼーションで霊柩車に替わった。
など、変化の事例はどの時代にもありました。
意味を考えず原理主義的に慣習を継承する必要はありません。

そもそも島田氏の言う合理化が具体的になにを指しているのかがよく分かりません。
ここでいう合理化とは、従来の葬送文化がないがしろにされ、「形式」ばかりにこだわった葬儀スタイルとなってしまったということです。
という記述だけがありますが、葬儀ってそもそも儀式なのだから、形式にこだわるのは当たり前だと思いますし、「形式ばかり」の形式が何を指すのかがわかりません。

変化の事例として自宅葬から会館葬へ移ったこと、車で参列すると通夜に酒が飲めないことを挙げて批判していますが
前者は遺族の肉体的精神的負担を減らすことに寄与していますし、
後者は葬儀屋のせいではありません。
葬儀屋が葬式を変えてしまったと批判する宗教者や学者が一定数いますが
そもそも葬儀屋主導で葬儀を変えることなどできません。
我々は社会的ニーズに乗っかかるしかないのです。
葬儀屋が葬儀をどうこうすることができるなら、
葬祭業が衰退することなど無かったでしょう。

それから地方はまだ文化が残っている(から良い)とおっしゃいますが、現在の東京の葬儀を100年後の人がみたら、民俗学的に東京の葬儀を一エリアの一文化として捉えるはずです。
この優劣はどこにあるのでしょうか?

次に個々の記述に対する反論。
なぜ東京に限ってとなるかと言いますと、いま、東京で信頼して葬儀を任せることが
できる葬儀社や寺院、さらには墓石業者がいないと感じているからです。一方、地方では依然として地域共同体のつながりがいまだに強い地域もあります。そうした地域では、信頼できる業者は残っているでしょうし、葬儀がすぐになくなってしまうとは思えません。
これは逆だと思います。
なぜなら「地域共同体のつながりがいまだに強い」地域においては
葬儀は菩提寺や町会や近所と付き合いのある葬儀社に頼む、
という同調圧力が働いているため、競争原理が働かないからです。
さらに、葬祭会館の立地を見てみると、東京の葬祭会館は、そのほとんどが人目につきにく
い場所にあることが多い。しかし、地方都市では、主要道路沿いの目立つ場所にあります。つまり、東京では、葬儀は人知れず行なわれることが多く、極端にいえば、亡くなったことすら知らないということもありえます。
東京の会館は人目につきにくい場所にあるというのは、事実でしょうか?
地方が車社会だと言っても、郊外にある地方会館より人口密集地にある東京の会館の方が「目立つ」のではないのでしょうか。

中盤やたらと東京の葬儀が形骸化していると言っていますが
なにをもって形骸化していると言っているのかがハッキリしません。
結婚式には偽牧師が来るという事例を挙げて
消費者も特別な思いをもって式に臨んでいるわけではないという事実からすれば、葬儀もいずれそうなって(似非)僧侶が登場しでも気にしないということになりかねないということです 。さらに問題なのは、このような形骸化された儀式を生み出したのは事業者サイドであり、かつ、形骸化されたことに気づいていない事業者が多いことです 。
実在しない似非僧侶を想定して形骸化していると、さも既成事実かのように言っています。
言いがかりにしか聞こえません。

そもそもゼロ葬を提唱するなど葬儀を形骸化させているのはあなたの方でしょう。
これを読んでいる葬儀屋さんは
おまえが言うな!
と思ったはずです。
この点を重視して、葬儀社も単に価格が異なるプランを提案するのではなく、もっと細分化
された葬儀プランを取り揃えておく必要があるのではないでしょうか 。たとえば、遺骨は当社(葬儀社)が引き取りますといったO葬プランを提供するといったように、どれだけの選択肢を提供できるかが今後ますます重要になるのではないかと思います 。
島田氏が知らないだけで、葬儀の多様化によって現代の葬儀はかなり細分化されています。
あとゼロ葬プランはあなたが煽っているだけで、葬送の自由をすすめる会からは総スカンを食ったではないですか。自分が失敗した方法を挙げられても困ります。
それからもう1つ 。過剰な演出はいらない。昨今、当家や会葬者を泣かせようとする過剰な
演出を行なっているようですが
この間の記事(葬儀の過剰演出の原因)でも書いたように過剰演出は一般事例ではありません。
この話のソース(情報源)どこですか?
そもそも、東京の葬儀はより合理化が進み、システマチックなものになりかねません 。
と批判するなら、一件無駄に見える手間暇をかけて個々人の好みに合わせて演出を加える過剰演出は島田氏にとって好ましいはずです。
前述した「形式」ばかりにこだわった葬儀スタイルと真逆なわけですし。

いったいどうしてほしいのでしょうか。

しかしなんでこんな事実に反することを次々と言うのだろうと思いながら読み進むと衝撃の発言が・・・
私はこの 2 、3 年の問、葬儀に参列したことはありません 。
つまり現代の葬儀を良く知らないのに、調べもしないで想像で、
もしくは伝聞情報を鵜呑みにしてモノを言っているということです。
これはさすがにひどいでしょう。

この発言の後では
昨今、「終活 」という言 葉が流行っていますが、その終活をはじめた方でさえ、年を重ねるごとに終活に熱心でなくなる人がふえています
と言っていますが、この発言が島田氏の想像ではないことを証明するためにソースを示せ、と言う気も失せました。

反葬儀の権威になったので、もう間違ったことを言っても大丈夫と
お考えになっているのかもしれません。


<2017年06月11日>記載